ひびろぐ

いつだって私たちの手のひらには物語がある。

傘の大きさと恐れは比例する。

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久しぶりの雨降り。

 

こんなに降ったのはいつ以来だろうか。

 

乾燥した町並みが潤いを取り戻す。

ネオンも車のテールランプも街灯も滲んで見える。

 

君は滲んだ世界を歩いていた。

傘もささずに、歩いていた。

 

「どうしたの?こんなにびしょ濡れで」

私は君に駆け寄る。

もちろん傘はさしている。

 

「ちょっとくらい濡れたってかまわないわ。だって、そのうち乾くでしょ」

君はそう言うと黒い空を見上げた。

 

「風邪ひいちゃうよ」

君を私の傘の中へと誘う。

 

私と君くらいなら、私の傘で雨を凌ぐことができる。

私の傘は大きいから。

私は雨に濡れたくないから。

 

「平気よ、ありがとう」

君は私に微笑み、傘から出る。

 

「風邪ひいちゃうよ」

私は乾いた声で言う。

 

「大丈夫。まだまだ雪にはなりそうもないから」

君は手のひらで雨をいくつか受け止めた。

 

私は君のあとをついていく。

私の傘に君は入らない。

私の大きな傘は、どんな雨だって凌げるのに。

 

「そんなに大きな傘を持って、疲れないの?」

いくらか歩いたあと、君は振り返って私に言う。

 

「まあ多少は。それでも濡れるよりかは幾分もマシ」

右手で持っていた傘を左手に持ち替えながら、私は言う。

 

「時間が経てば、自然と乾くのに」

君は笑う。顔じゅうを濡らしながら笑う。

 

「乾かす時間が勿体ないとか面倒臭いとか思わない?」

「そんなことないわ。時間はいつだって平等だから」

「平等だからこそ、もっと別のことに使いたくない?」

「早く乾かそうとするから時間を使うのよ。ほかのことをしながらだって、乾くでしょ?」

「まあ、そうだけど。気持ち悪くない?」

「何が?」

「からだが。あと、気分も」

「からだが濡れることなんて気持ち悪いうちに入らない。そんなことで気分が悪くなることなんてない。濡れることは恐れることじゃない。濡れることを恐れるのは、きっと他のことを恐れているからよ」

君の歩くペースは、びしょ濡れの君を見つけたときから変わらない。

 

私の傘は大きい。

他の人が使っている傘よりもさらに大きい。

私と君くらいなら、簡単に雨を凌げる。

 

私の傘は青い。

晴れた日の空よりもさらに青い。

雨降りでも、この傘の中だけは晴れている。

だって私の傘は大きいから。

 

「あなたはあっちでしょ」

曲がり角で君は立ち止まり、小さく手を振る。

 

「本当に大丈夫?」

いつまで経っても私の声は乾いている。

 

「ありがとう」

君は潤った声で言う。

どうしてそれほどに潤っているのか。

塗れることを恐れなかったら、私の声もそうなるのだろうか。

 

君は小さく振った手をおろし、滲んだ世界へ歩いていく。

 

私は大きく青い傘をさして、滲んだ世界へ消えていく。

 

濡れることを恐れるのは、きっと他のことを恐れているからよ。

君の言葉が頭をよぎる。

 

雨はさっきよりも強く大きく冷たくなっている。

 

私はたしかに恐れている。

濡れることを恐れている。

瞳が濡れるような出来事を、恐れている。

 

振り返ると君は滲んだ世界のどこかへ消えていた。

 

私は滲んだ街灯に照らされ歩いている。

 

まわりを見渡し、誰もいないことを確かめてから、私は傘を畳んだ。